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“UFOを流行らせた男” 矢追純一81歳「空を見上げてほしかった UFOなんて実はいない」

   

“UFOを流行らせた男” 矢追純一81歳「空を見上げてほしかった UFOなんて実はいない」

矢追純一が語る「UFOとテレビ黄金時代」 #1

矢追純一。その名は、1970~80年代を生きた日本人に強烈な印象を残している。80年代に幼少期を過ごした私も、日本テレビ『木曜スペシャル』のUFO特番や超能力特番に熱狂した。まだ家と学校の中だけで生きていた時代、矢追さんは世界の不思議への案内役だったのだと思う。だが、大人になってテレビ史を研究する中で、彼は何よりも伝説のテレビマンだったのだと気づかされた。そして、テレビマンとしてのお話を聞いてみたいと思った。

待ち合わせの喫茶店に現れた矢追さんは、赤いダウンジャケットを着込み、81歳とは思えないような若々しさだった。インタビューでは、「テレビの黄金時代」を知る一人のテレビマンとして、黎明期のテレビからドキュメンタリー論、さらには現在のテレビについてまで、熱く語ってもらったーー。

社内のダメなやつが集まってできた『11PM』

―― 今日はテレビマンとしての矢追さんに迫りたいと思いまして……

(照れながら)そんな、話すことなんてないよ。

―― 日本テレビに入社するにあたって、こんな番組を作りたい、といった思いはあったんですか?

そんなの全然ありません。当時、テレビなんか誰も知らないんです。唯一知ってるのは力道山のプロレスぐらい。大学生のころ、エレベーターボーイのバイトをしてたんだけど、あるとき、月に1回だけ来るおじさんが、「矢追君、就職決まったの?」って聞いてきたんです。「いや、何も考えてません」って答えたら、「じゃあ、日本テレビ見てみたい?」と言うので、見に行ったの。

―― 初めて見るテレビ局はどうでしたか?

スタジオを見たら、何もないだだっ広いところに、電気がいっぱいぶら下がってた。ここにリングを組んで、力道山の試合をやるんだろうなって感じだったね。だから、力道山の会社かもしれないと思ったんですよ。で、「この会社受けてみる?」と言われて、「はい」と。当時、推薦がないと試験を受けられなかったんで、そのおじさんが推薦してくれた。後で聞いたら、日本テレビの著作権課長の戸松信康さんだったんです。

―― すごい運命的な出会いですね。入社してからは、すぐに番組制作へ行ったんですか?

いきなり演出部に配属されたんです。最初はドラマ。全部生放送のね。当時は、VTRって高いんです。しかも編集するには、定規を当てて切った箇所に、銀紙を貼って繋ぐんです。手で貼るから、熟練しないと無理なの。

―― 手作業だったんですか。

そう。しかも1カ所5万円なんですね。だから、誰も使わない。

―― ドラマの番組名は、覚えてらっしゃいますか?

本間千代子主演の『チコといっしょに』とか、中山千夏が出てる『現代っ子』とか。レギュラーで結構やってたんだけど、何せドラマが嫌いなので。

―― えっ、ドラマがお嫌いなんですか?

あれくらい世の中に悪いものはないと思ってるんです。ドラマって、人間として一番ダメなところを拡張する代物なんですよね。今、映画なんかもそうだけど、一生懸命感情をくすぐって泣かそうとするわけですよ。「絶対泣けます」みたいな。バカじゃないかと思ってるんですよ。人は、つらいことがあって泣くんだけど、つらいことはないほうがいいわけじゃない。それなのに、負の感情を植え付けようとするのがドラマなんです。ホームドラマにしても、何とかしてニコニコ気分よくしようとする。要するに、感情を左右しようとするんだよ。くだらないんだよな。

―― ドラマをやめて、ドキュメンタリーを撮るようになるのは、いつ頃からですか?

『11PM』が最初ですね。ドラマをクビになってから、音楽番組やったり、寄席の番組までやったりね。バラエティーも結構ありました。でも、みんなつまらなかったんだよね。それで腐っていたときに『11PM』ができたので、「拾ってください」とプロデューサーに頼んで入れてもらった。

―― 深夜の情報番組である『11PM』は、かなり自由度が高かったと聞きましたが……

そうですね。当時、深夜番組ってなかったんですよ。11時にはみんな寝静まっていたから、スポンサーも付かないしね。だけど、何とかして深夜番組をやりたいという勢いがプロデューサーにあって、スポット売りにしたんです。問題なのはスタッフがいないことなんですよ。一人で何本も番組を担当してた時代だから、みんな忙しい。しかも、視聴率がゼロに近いと思われる番組に、自分の手下を貸そうという人間が一人もいないわけですよ。しょうがないから、プロデューサーが社内のダメなやつばかり探してくるわけ。あらゆる部署に行って、余りものを集めたんです。

―― プロデューサーは、どなただったんですか?

後藤達彦です。今考えても、日本で一番いいプロデューサーでした。「お前ら好きなものやっていいぞ。ケツは俺が拭くからな」という太っ腹な人だったね。日テレには、ほとんどヤクザみたいなやつとか、悪いやつとかもいて、ムチャクチャだった。今みたいに管理されている社会ではないからね。そういう意味では、あの時代の中でも日テレが一番おおらかだったんじゃないですかね。

「宇宙人が乗ってきてるかもしれないので、空を見ましょうよ」

―― 『11PM』では「好きなものやっていいぞ」と言われたそうですが、矢追さんはなぜUFOだったんですか?

UFOをやりたいと思ったわけじゃないんだよ。何をやってもいいと言われたから、何しようかなと考えたんだ。その頃、僕が気になっていたのは、日本人ってどうしてまっすぐ歩くのかなということだよ。どこ行くにしても、前をまっすぐ見つめたまま、わき目もふらず歩くじゃないですか。バタバタバタバタ。ゾンビみたいだなと思った。よその国の人はもっとブラブラ歩いてるよ。僕は、バックパッカーで世界中を旅行してたから、大体知っているんでね。日本人は、多分精神的に余裕がないんだろうなと思い始めた。社会全体がこの状態だと日本はいずれ煮詰まるぞ、と。だから、たまには立ち止まって空を見ろよ、という番組にしようと思った。

―― その頃は高度成長期で、日本中が前ばかり見ていた時代ですもんね。

今でもそうじゃない。立ち止まって空を見たら、東京といえども空間が広いじゃないですか。そうして、「僕ってなんでこんなことにクヨクヨしてるんだろうな」ってことに気付いて、心の余裕を取り戻してほしいなと思ったんです。会社がつぶれたら首をくくろうなんて、そんなことないんだよ。会社捨ててどこかへ行っちゃえばいい。家族もみんな捨てて行っちゃえばいいんだよ。死ぬことを考えればね。で、また帰ってきて働けばそれでいいじゃんね。

―― ということは、UFOを探すことが目的ではなかったんですね。

空を見る番組というのは、エンターテインメントとして面白くないじゃない。星座を解説してもしょうがねえだろうと。そう思っているうちに、本屋でふと目に入った本に「空飛ぶ円盤」って書いてあったのね。当時、UFOなんていう言葉はないよ。あれは僕が流行らせたからね。パラパラ読んでみたら、宇宙人が来てるらしいと書いてある。それで、「宇宙人が乗ってきてるかもしれないので、空を見ましょうよ」という番組を作ったわけ。

―― 不思議に思ってるんですが、その後、ユリ・ゲラーやネッシーといった番組を次々と企画されてますよね。どうやって情報を集めたんですか?

向こうから勝手に情報がやってくるんです。アメリカとかイギリスとかロシアとか。ネッシーは僕は単独で3回くらいやってますね。UFOの番組にしても、まず企画書というものを出したことがない。そんなものを出すと働かなきゃならないからね。僕は怠け者だから、働くのが嫌いなんです。だから、なるべく目立たないようにして、会社にもあまり行かない。ホワイトボードに「宇宙遊泳中」と書かれたりしてね。

―― ハハハ。社内でも宇宙人扱いだったんですね。そうはいっても、数々の特番を作られてますよね。いつ仕事をされてたんですか?

あるとき、上司が「お前、給料もらってるんだろうな」って言ってくるんです。「そろそろ働け」「分かりました。何しましょうか?」「まあ、視聴率いいからUFOにするか」「そうですね。いつにしましょうか?」「オンエアは10月2週目の木曜日な」となるんだけど、それでも放っておくんですよ。そうすると、どこかから情報が入ってきて、ひらめくというと聞こえがいいけど、やる気になる。

―― スイッチが入るわけですね。

そう。それで、取材スタッフを連れて海外に行くんだけど、僕は、自分も入れてスタッフを5人以内にしてあるんです。それ以上になると車1台で入りきらないから。で、自分で運転するんです。出発して、目的地の近くに行ったぐらいからカメラを回し始める。道中も探してるところもドアをノックするところも、全部回す。相手は素人だから、部屋に入るとそのまますぐにしゃべり始めるでしょう。それも全部撮ってるんです。今のテレビって、最初に話を聞いておいて、「こことここが面白いので、また聞きますから話してください」ってやるじゃない。だけど、初めてしゃべるところを撮る方が、迫力が違うんだよ。

―― たしかに、それだと段取りになってしまいますね。

話してる方も二番煎じ三番煎じだから、バカバカしくてというのが顔に出ちゃうわけだね。それで通訳まで入れるから、さらに話がめんどくさくなる。僕は一切通訳を入れないし、コーディネーターも入れない。それこそ飛行機の手配まで全部自分でやるんです。一人で、ディレクター・プロデューサー・通訳・コーディネーター・ドライバー、全部兼ねてるんだよ。そうやって1カ月ぐらいいると、『木スペ』3本ぐらいは撮りますね。だから、会社には貸しだと僕は思ってる。

結末はどうだっていいんです。プロセスが面白い。

―― そのようなスタイルだと、台本は作らないんですか?

もちろん。そんなもの作ったら面白くないもん。台本作るとそのとおりにやろうとするじゃないですか。そうすると、ドキュメンタリーでもニュースでも何でもなくなっちゃうんだよね。要するに、頭から結末まで全部計算したものを出そうとするわけ。それが演出だと思い込んでるアホが多いんだよね。予定調和をしてはダメなんです。僕は、番組を作りながら台本を書いてるから、台本は放送が済んでからできる。

―― 撮影しているときは、結末が見えてないわけですね。

結末はどうだっていいんです。プロセスが面白いわけであって、分からない結末を探していくという、そのプロセスを見ている側も楽しむわけですよ。制作者側もそれを追求していくわけでね。見ている側は、自分も探偵になったような感じになれるんだね。ところが、今の番組の作り方というのは、ドキュメンタリーでさえ、まず結末を先に考えてる。

―― ドキュメンタリーは、プロセスこそが重要なんですね。

だから基本1カメなんです。その方が、臨場感があるし、全部自分がやってる気持ちになれる。いまだにみんな覚えてるのは、自分が一緒に参加してるつもりになってたからだよ。当時もUFO番組を作ってるやつがいないわけじゃなかったんだろうけど、今のとは雲泥の差なんだ。作り方が全然違うんです。日テレを辞めてから、初めて「矢追純一の」という冠をつけて、僕が画面に映るようになったんだけど、それまではなるべく映らないようにしてた。肩なめぐらいにしてさ。見ている側が一緒に行ってる気になれないとつまらないからね。

―― ドラマと全然違う方法論で、ご自分のドキュメンタリストとしての道を見つけたんですね。

そんな大層なものじゃないけどね。何も考えてませんよ。

―― 当時、ライバルはいらっしゃったんですか?

競争がすごい嫌いなんです。だから、競争はしたことがない。周りのことが全く気にならないから、自分に忠実に、好きなように生きてるだけなんです。会社だろうが何だろうが知ったこっちゃない。

―― 他局のディレクターの方との交流はありましたか?

交流会みたいなものはあったね。同期ぐらいのやつを各社から集めて、サークルみたいなものを作って、「テレビは芸術たりうるか」みたいなことを侃々諤々やってたことがあるんだよ。でも、つまらなくなってやめたんだね。それぞれが勝手なことを言っているだけで、何のまとまりもない。その頃に同期だったのは、実相寺昭雄、今野勉、田原総一朗とかだね。

―― すごいメンバーですね。実相寺さんと言えばウルトラマンシリーズの演出を手掛けた方ですし、今野さんはのちに「テレビマンユニオン」を立ち上げるテレビマンですよね。田原さんは当時テレ東のディレクターだったと思いますが、どんな方でしたか?

12チャンネルのね。でも全然、覚えてないね。忘れたよ。

―― 今も交流はないですか?

ないです。過去は切り捨てるので、一人もいないですね。

―― 競争が嫌いといっても、テレビにはどうしても視聴率が付いてまわるように思うんですが……

でも、それも気にしたことないから。視聴率を取りにいったら多分失敗するよ。スケベ根性が見え透くからね。今の番組がつまらないのはみんなそうだよ。視聴率取りたくて、スケベ根性が丸見えだからダメなんだ。大体、3歳から90歳までを取り込もうと思うこと自体が無理なんだよ。みんな嗜好が違うからね。どこかにターゲットを絞らなきゃしょうがないのに、オールラウンドにやったほうが視聴率を取れるんじゃないかと考えてる。そうではなくて、自分が情報の発信源になるわけ。発信する側として、自分のポリシーをもつ。それがいかにエキセントリックなものであろうとも、そいつがそれにこだわっている以上は、見ている側も面白いんです。

http://bunshun.jp/articles/-/1784

 

USOだったのか…(;´Д`)

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