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ここは愉快なインターネッツですね

「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話

   

「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話

初老の男性にシャウト!!!
「ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ」

目の前の初老の男性がそう叫んだのは、佐々木俊尚さんとの八重洲ブックセンターでのトークイベント終了2分前、話題が「多様性」に及んだ時のことだった。

一瞬ポカン、その後ふつふつと怒りが湧いてきて「あーっだめダメ、怒っちゃ、ダメ!登壇者とお客さんなんてパワーバランス悪すぎだから!絶対に怒っちゃ!だめ!」と煩悶するも私の堪忍袋の緒はこういうケースにおいてはヨーヨー釣りのこよりぐらいには切れやすく、2秒後にはあっけなく瓦解、「私は!今の発言を聞いて非常にモヤモヤしています!」とシャウト、なぜならその会場には私のLGBTの友人がいたからで、そうでなくたって社会の7%、80人の会場なので80×0.07で5、6人はその会場にいたはずで、この場をそのまま終わらすわけにはいかず、会場はその日一番の盛り上がりを見せたが、おじさん本人はポカンとしていて全くノーエフェクト。その場で当意即妙に切り返せなかった自分を嫌悪しその後、2日ほど寝込む。

きっとあのおじさんは非常に素直な人なのだろう。

自分が気持ち悪い、とか嫌だ、と思うものに対して素直に「嫌だ」と言ってしまうことを、これまで誰にも咎められずに来たに違いない。

そう考えたら私がいくらモヤモヤしようと、彼と私との間に生まれた断絶はどうにも越えられないような気がして悶絶。

佐々木さんは「上の世代なんてそんなもんだよ」と苦笑いしていたが、「そんなもん」でいいのかよ!……と、後日、知人の男性にその話を怒りながらしたら、

「うんうん、そうだね。例えばだけど、好みではない女性から好意を示された時に『気持ち悪い』なんて言って断るような男は端的に言って“いい男”ではないですね。それと同じで、性的対象でない相手のことを聞かれてもいないのにわざわざ『気持ち悪い』と表現してしまう男は端的に言って“いい男”ではないね」

と言われ半分納得、しかし半分のモヤモヤは残った。

差別とか偏見って、どうして無くならないのだろう。

言論を封じることは可能だが、心の中で社会の特定の人々に対して気持ち悪いとか嫌いだとか心の中で思うことを止めることはできない。

だって偏見とは「生育過程で当人も気づかぬうちになぜか持たされてしまった思想」のことで、彼らがなぜその人々に対して違和感を感じ、嫌悪するのかは、彼ら自身にすら分からないからだ。

私にだって多々ある。

例えば「ゲイが気持ち悪い」と言うおじさんに対して「これだからおっさんは」とつい、思ってしまうくらいには(つまり、私も彼とある部分では同質である……トホホ)。

現代の日本において、多様性をめぐる状況は多分過渡期、それはもう枝葉のように細分化したいろいろな意見が出てくるだろう。

その時に、私たちは異質な他者を許せるのか。

「少数派になりたくない」という恐怖
ちょっと前に、ネットの記事で「LGBTが気持ち悪い人の本音 『ポリコレ棒で葬られるの怖い』」と題されたインタビュー記事が炎上した。

その記事では「ポリティカルコレクトネス(政治的な正しさ)で人の発言や感性を断罪する風潮が息苦しい」と30代のヘテロセクシャル男性が語っていた。「本能的に気持ち悪い、と思ってはなぜいけないのか。この感覚を許容してほしい」。

その記事には多くの批判が寄せられていて、それは単に彼の発言に対してだけではなく、この記事を書いた記者に対し「彼のような存在がなぜ生まれたのか、その背景や社会構造などを解き明かさないまま、ただ彼の意見をそのまま載せただけで稚拙なジャーナリズムである」という批判が半数を占めていた。

そりゃそうだなあ、と思う一方、記者の力不足だ、と批判している人たち――基本的にはLGBTs擁護派の人々である――は、最初から「多様性は認められてしかるべき」という信じ込みに拠って立ってるな、って感じもして違和感を覚える。

「この男性がこのような差別発言をしてしまうのは、背景に間違った社会構造があるからだ」と無邪気に信じているようだが、彼がセクシャルマイノリティに嫌悪感を覚える理由など、彼自身にも、ほかの誰にもわかりようがない。

構造が正しくなれば、誰も自分たちの「アンチ」ではなくなるという考え方こそ、場合によっては個を押しつぶす全体主義になりうる。

多分、みんな怖いのだ。ひとりぼっちで孤立するのが。

少数派を叩くのは、自分たちが少数派になりたくない、という恐怖の裏返しである。

だからこそ冒頭のおじさんのように「俺たち多数派だよな」と言う子供っぽい目配せを、大勢の場で仲間のように見える人々に向かって送ってしまう。

逆に多様性を認めろ、と言う人は、これまで多数派の意見が通りやすい社会状況だったことで、自分の主張、存在自体がかき消されてしまう恐怖を味わってきたから、それがようやく認められるようになりつつあるいま、元の状況に戻りたくない、せっかく得られ始めた社会との一体感を失いたくない。

だから、自分たちを気持ち悪い、と言う人間を見つけると、身の危険を感じて一斉に叩く、それが「ポリコレ棒」である。

マジョリティ男性のゲイに対する嫌悪感も、多様性推進派の人々が反対派を「自分たちの側に」矯正したいという気持ちも、残念ながら根っこは同じ、どちらも自分たちとは異質な存在を許容するには至れていない。

そうっとしておく勇気

話はそれるが、つい先日、母校の高校を訪ねた。通っていた14年前とは何もかもが大きく変わっていたが、一番びっくりしたことは、学生食堂に「ぼっち席」が設けられていたことだ。

スタバやドトールなんかであるでしょ? 窓際にぐるりと巡らされた一人用のカウンター席。あれがね、食堂にもあったの。

聞くところによると、あるぼっちの生徒の「ぼっちだって、食堂を使う権利がある。みんな仲良く、なんて糞食らえだ。お昼の時間だけ、孤立を恐れて、対して仲良くない人間と気まずさを感じながら味のしないご飯を食べるくらいなら、一人でゆっくりと自分のペースでご飯を食べる空間が欲しい」という要望から始まったらしい。

それを聞いて、私はとっても嬉しくなってしまった。

仲間でなくても、分かり合えなくても、そっとしておく勇気、それを子供たちこそが大人よりも先んじて、実践してんじゃん、って。

中高の頃、一緒にお昼ご飯を食べる相手のいない私にとって、お昼休みは地獄だった。

食堂では野球部やサッカー部やラグビー部など、数が多くて声の大きな男の集団が幅を効かせていて、一人の人間は肩身が狭かった。

たまにお弁当を忘れて食堂で食べなければいけない時などは、できるだけ目立たない席を確保するのに必死で、彼らから通りすがりに揶揄されたり、じろじろ見られたりするたびに恥ずかしさと腹立たしさで爆発しそうになりながら急いで牛丼を掻きこむ以外に術はなかった。

同じように、フロアの片隅にはぼっちの子たちが肩を狭めてうどんをすする姿がぽつぽつと見られたが、「ぼっち」だからと言って別に仲良くなれるわけではない。同類がいたところで、大多数に混じれない惨めさが消えるわけではない。

別の海域から来た回遊魚を眺めるような気持ちで彼らを眺め、なんなら「あんな風にはなりたくない」とさえ思っていた。自分だって、全くおんなじくせして。

多数派に相容れない人間、集団からはみ出す人間、一人を好む人間を、そうっとしておいてほしい。

望むのは、無理に仲間を作らされたり、矯正されたり、物珍しそうに根掘り葉掘り聞かれることではない。トレンドにされることでもない。

ただ、「そうである」というだけで、どうのこうの、野次馬から何かを言われない――突然「存在するのは勝手だけど、惚れられたら気持ち悪い」だなんて、いきなり角ブロックで後ろから殴られるような真似を、日常生活の中でされなくて済むこと。

それだけだ。

自分とは異質な人間、話し合っても根幹のところで理解できない人間を、それはそれとして、そうっとしておく勇気が、今の世の中においては必要なのだと思う。

それは品性の問題であり、知性の問題でもある。

誰かに持たされた偏見ではないか
窓際にぐるりと設置された「ぼっち席」では、一人が好きそうな偏屈そうな教員や、学校を訪れたお客さん、生徒数名が、静かに、窓の外の景色を眺めながら、心地よい距離感でめいめいに食事を取る風景が見られた。

異質なものは「受け入れ」なくていい。ただ共存する方法は考えたほうがいい。

そもそも異質なものに対する嫌悪感、それを感じているのは本当に自分の感覚なのだろうか。

誰かに持たされた偏見ではないか。

それを吟味した上で、それでも理解できなそうだと思ったら距離を取ること。あなたも私も孤立したくないという意味では、同じ存在であると知ること。

多様性をめぐる議論は今、過渡期にあり、いろいろな立場のいろいろな人間とこの先、ぶつかる機会だってあろう。

その時、その場においては「マイノリティ」を自負する自分たちこそが、実は異質な相手を認めずに押しつぶす「多数派」の一員になってはいないか。

異質な人間が増えることは、決して孤立とイコールではない。

あなたと私は違うし、苦手ではあるけれど、互いがこの世界に、この共同体に存在することを認め、そうっとしておく勇気を持つこと。

一方で、いつかある部分では理解できるかもしれない、できないかもしれない、という一縷の可能性に向けて、心の窓の一つを開け放しておくこと、そこから吹き込む新しい風と、明るい日差しを感じること、それはこれまでの昭和的な社会で求められていた知性と忍耐と勇気とは、また別の毛色、別の手触り、別の温度を持つものであり、「大多数であること」なんかよりもよほど強度のある「在り方」であるし、今現在この国のトップが掲げている「強さ」とも、また別のものである気もする。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56492

 

まずこの人自身にまったく寛容性がなくて草

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