シン・エヴァンゲリオン、庵野監督から妻へのラブレターだった

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はいかに「オタクの呪縛」と向き合ったのか<ネタバレ注意>

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は1都3県で緊急事態宣言が継続している最中の、異例の月曜日公開ながら、初日からの7日間累計で興行収入が33億3800万を超えるという特大ヒットを記録した。90年代に社会現象となった『エヴァンゲリオン』というコンテンツが四半世紀の時を経て、またも熱狂を巻き起こしているというのは驚異的だ。

その『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、この1作品だけを観て十分に咀嚼できる内容ではない。これまでの『エヴァンゲリオン』シリーズはもちろん、庵野秀明(総)監督という人物のこと、そして作品をとりまくメタフィクション的な要素にまで目を向けてこそ、真にわかる魅力と面白さがあったのだ。

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そこには、庵野監督による「オタクの呪縛」に真剣に向き合うという、志の高さも感じさせた。それらの理由を、以下より解説していこう。

※以下からは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストを含むネタバレを記している。観賞後にお読みになってほしい。また、前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』や旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版air/まごころを、君に』のネタバレにも触れている。

アスカやレイという「アニメのヒロインからの卒業」
前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から、ヒロインのアスカの見た目が14年の時を経ても変わらない、14歳の姿のままだという「エヴァの呪縛」という新設定が登場していた。

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アスカは、オタク文化にあまりに浸透したキャラクターだ。彼女が初恋の人であり、理想の女性像だとのたまう方も決して少なくはないだろう。そのアスカを劇中で「14歳のままでいさせる」ということは、「現実でどれだけ時間が過ぎようともアニメの中のヒロインの年齢は変わらないまま」「いつまでもアニメの中のヒロインに幻想を抱き続けてしまう」という、まさに「オタクの呪縛」のメタファーとも言える。

また、もう1人のオタク文化の代表的なヒロインであり続けた綾波レイも、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から、それまでのレイとは違う、クローンとしてのアヤナミレイ(仮称)として登場していた。

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今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、そのアヤナミレイ(仮称)がプラグスーツを着たまま田植えをするという斬新な姿を見せ、そして年齢を重ねた女性たちの元で農作業の仕事を学んでいた。これは、「受動的で人付き合いが苦手」という印象を持ちやすいレイというキャラクターが、他者とのコミュニケーションについて大きく前進した姿でもある。

そして、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の終盤にて、アスカとシンジはそれぞれ「好きだった」と過去形で告白をする。シンジはアヤナミレイ(仮称)についても「自分の居場所を見つけたよ」と告げた。そして、大人になったシンジが、最後に駅の外に共に飛び出していくのは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』から登場した型破りな性格のヒロインであるマリであった。

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』において、シンジはアスカとレイの関係に区切りをつけて離れている、つまりはアニメのヒロインからの「卒業」を描いている。ラストで大人になったシンジが、マリにDSSチョーカー(エヴァが覚醒した際にパイロットの命を絶つデバイス)を外されるというのも、「(オタクの)呪縛からの解放」を意味しているのではないか。

「アニメと現実は地続きである」というメッセージ
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の終盤では、これまでの『エヴァンゲリオン』シリーズのタイトルが投影されたり、アニメが絵コンテや下書きになるといった、メタフィクション的な演出があった。

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実写映像をもって「これはアニメなんですよ」と示す演出は、『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版air/まごころを、君に』でも同様にあったが、そちらがほぼほぼ受け手への悪意としても読み取れるものであったのに対し、この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストは、とても「優しい」ものへと変わったと言っていいだろう。

何しろ、「アニメ」として描かれたシンジとマリが、「実写」である外へと共に駆け出していくのだから。これはつまり、「アニメと現実は地続きである」というメッセージだ。アニメで得た感動(マリ)は現実に持ち帰って良いし、レイとアスカから卒業したとしても、彼女たちが「好きだった」気持ちも大切にして良いし、それでこそ現実もまた彩り豊かなものになるのだから……そんな結末に思えたのだ。

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また、『エヴァンゲリオン』の劇中にはよく電車というモチーフが登場し、テレビアニメ版の4話および『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』では、シンジは「現実逃避」の目的で電車に乗ってミサトの元を離れていた。今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でシンジが電車に乗らず、マリと共に駅の外へと出ていくというのは、やはり「現実逃避をしない(現実を生きる)」ことのメタファーだろう。

また、マリのフルネームは真希波・マリ・イラストリアスであり、綾波レイ、式波・アスカ・ラングレー(新劇場版から、苗字が惣流から変わっている)と同じく名前に「波」が入っている。新たなヒロインと共に実写(現実)の世界へ旅立つというラストながら、「マリもまたレイやアスカと同じくアニメのヒロインなんだよ」というシニカルな視点もあり、現実とアニメを分断せずに「どちらもある世界」を描いているのが、面白い。

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そして、最後に実写として映し出されたのは山口県の宇部新川駅であり、庵野監督の出身地も山口県宇部市である。この場所に戻ってきたということは、庵野監督の作家としての原点がここにあるという訴え、つまりは「原点回帰」でもあるのだろう。

『監督不行届』の言葉を読んでわかる「妻の安野モヨコへのラブレター」
庵野秀明監督は、オタク文化に多大な影響を与えたアニメ作品を数多く世に送りだした作家でありながら、その作品に耽溺してしまうこと、もっと言えば現実逃避をしてしまうことに対して危機感を持っている作家である、ということが重要だ。

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そのことがわかる一例が、2005年に単行本化された、妻の安野モヨコ作のコミックエッセイ『監督不行届』に収録されている庵野監督の言葉にもある。

ここで、庵野監督は「嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの逃避場所にしていないこと」「読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんです」と妻の作品を褒め称えており、その上で「現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです」「『エヴァ』で最後まで自分が最後までできなかったことが、嫁さんのマンガでは実現されていたんです」とまで、その衝撃を語っている。

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前述した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末は、明らかにこの「外(現実)に出て行動したくなる力を持つ妻の安野モヨコの作品」に触発されたものであり、これまでの『エヴァンゲリオン』シリーズでは十分になし得なかった、「アニメと現実との折り合い方」にも1つの決着をつけたものだ。

庵野監督は、自身の作品を「他人の中で生きていくためのもの」として完成へ導いてくれた、妻の安野モヨコおよびその作品への感謝を、間違いなく『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に込めている。劇中で『シュガシュガルーン』のポスターや『オチビサン』の絵本などの安野モヨコ作品が出てくることが、その何よりの証拠だ。

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その『監督不行届』は、庵野監督自身がオタクだからこその、夫婦生活の面倒くささを、(フィクションも交えているそうだが)面白おかしく赤裸々に綴った内容だ。それでいて、庵野監督は同書の内容について「幻想としてのオタク像ではなく、真実の姿を分相応に示していることが好き」とも語っていた。そんな等身大のオタクの自分を愛してくれる妻への感謝を、ある種のラブレターとして表現したのがこの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でもあるのだろう。

ともすれば、最後にシンジとくっつくマリ=安野モヨコとも解釈もできるし、アニメの2人が仲良く外に駆け出していくラストは「オタクのままで現実で生きているカップルってすっごく楽しいよ!」という庵野監督の「のろけ」にさえ思えてくる。同時に、ネガティブなイメージも持たれがちなオタクたちを、「その作品が好きな気持ちは、そのまま現実を生きる力にもなるんだよ」と応援してくれるようでもあった。

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コミュニケーションの先にあった「贖罪」
庵野監督は、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の製作後にうつ病となった。これは妻の安野モヨコによる、株式会社カラーの歩みを比喩表現で描いたマンガおよびアニメ「大きなカブ」でも「ひどいケガ」として示されたものだ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』における農作業のパートは、この「大きなカブ」と同様にアニメ製作現場のメタファーとしても捉えられる。そのアニメは、1人では作れない、コミュニケーションがなければ完成し得ないもの。コミュニケーションは『エヴァンゲリオン』の作品の根底にあるモチーフでもあり、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でもアヤナミレイ(仮称)が「おやすみ」「さようなら」などコミュニケーションの手段を1つずつ知っていくことになる。

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今回のシンジが、アヤナミレイ(仮称)のように農作業をいきなり手伝うのではなく、あくまで「ケンスケの手助け」「魚釣り」という「できる範囲」から始めているというのも、うつ病からゆっくりと回復していく庵野監督のコミュニケーションの歩みのように思える。

同時に、このシンジが回復をしていく過程は庵野監督からの「贖罪」でもあるのだろう。前述した通り、庵野監督は自身の作品が熱狂的な支持を得ており、そのためにオタクたちが現実逃避をしすぎてしまっていないかという、危機感を明らかに持っている。それを、ほとんど悪意のような形で示したと言える『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版air/まごころを、君に』、および再び受け手を良くも悪くも混乱の渦へと叩き落とした『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を製作したことの罪悪感も、庵野監督にはあったのではないだろうか。

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それでも、オタクたちは『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を待ち続けていたし、実際にたくさんのお客が訪れ、賞賛の言葉を浴びせている。劇中でシンジが「なんでみんな、こんなに優しいんだよ!」と叫ぶのは、庵野監督の「いろいろなことがあっても、それでも自分の作品を好きでいてくれたファン」への、素直な気持ちそのものなのではないだろうか。

そのような庵野監督の来歴があってこそ、最後に『エヴァンゲリオン』を観てきた人を、「現実」へと送り出すラストに、大きな感動があったのだ。誇張なしに、ここまでのメタフィクション的な読み解きが根底にあり、そして「オタクの呪縛」を解いて、見事に受け手を「卒業」へと導いて完結したエンターテインメントは、二度と誕生しないのではないか。

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その庵野監督は『エヴァンゲリオン』という作品のテーマについて、「アニメファン(自分自身)の持つコンプレックスを考えて、何が『幸せ』なんだろうか。どうしたら『幸せ』になれるのだろうか」と語っていたことがあった。自分自身およびオタクたちの幸せを真摯に考えた結末としても、これ以上のものはないだろう。

歴史的な作品となった『エヴァンゲリオン』という作品及び庵野監督に、今一度、こう告げたい。「ありがとう、そして、さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と。

https://news.yahoo.co.jp/articles/68100545080a63081c9ae6fac8a72b9e71f15029?page=1

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sakamobi
sakamobi

オタクたちは何に付き合わされとったんや?😅😅😅

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